
再び3限目のマクロ経済学。大教室の湿った空気は、生徒たちの生真面目な熱意と教授の厳粛な声によって重く沈んでいた。皆がノートにペンを走らせる中、隆輝はノートパソコンの画面に映る無機質なローソク足チャートを見つめていた。

「…よって、労働者の限界効用は徐々に低下し、合理的な人間は余暇を求めるようになるわけですね。」
教授の問いかけに、大教室の沈黙が深まる。
(限界効用? ふざけんなよ。)
隆輝は心の中で呟いた。彼の「労働」に対する認識は既に教科書の概念とかけ離れていた。彼にとっての労働とは、時間と肉体の「安価な切り売り」でしかない。時給1100円の友人が20時間かけて稼ぐ2万円を、彼はレバレッジのかかった指先一つで数分のうちに生み出すことが可能である。
「労働の限界効用が低下する? その通りだ。だから俺は自分の時間と肉体を浪費しない。資本を働かせているんだ。」

隆輝は黒板の数式と格闘する級友たちを、哀れむような静かな視線で捉えた。彼のノートは既に講義内容ではなく『メディカル・フロンティア』の変動と、次の「波」に乗るべきバイオ株の銘柄コードで埋め尽くされていた。
隣の席の哲也が、姿勢を低くして愚痴をこぼした。彼の顔は連日のバイトで疲れ切っていた。
「あーあ、明日のシフトきついなぁ。立ちっぱなしで腰痛いし、マジでバイト辞めたいわ・・。でも、やめられねぇし。」
その正直な「労働者」の愚痴が、隆輝の冷笑を誘った。
「バイト? 哲也、いったい時給いくらで働いているんだ?」
哲也は怪訝な顔で隆輝を見た。
「は? 時給1200円だけど。なんだよ急に。お前、なんか怖いぞ。」
「聞いて驚くなよ。昨日俺は一日の不労所得で哲也の時給換算で月給以上の金を稼いだ。コンビニでレジを打っている間に、俺は次の富を生む投資先を探している。これが資本主義のリアルだ。鉛筆持って必死にノート取るより、チャートを見た方が賢明だぞ。」
隆輝の言葉は熱を帯びていた。それは、彼が選んだ道こそが絶対的な真理だという狂信的な確信から来ていた。
「俺たちは労働者サイドにいるべきじゃない。資本家サイドに移行するべきなんだ。」
哲也は一瞬目を丸くしたが、その言葉の奥にある邪悪な心を見て表情を引き締めた。
「…お前、本当に変だぞ。隆輝じゃないみたいだ。人を見下しているだろ。」
「は!?俺が信仰しているのは、『金』だけだ。この世界で最も公平で裏切らないものだからな!」
哲也は静かにため息をつき、隆輝から少し体を離した。その距離は物理的なもの以上に二人の価値観の間にできた決定的な断絶を象徴していた。隆輝は自分が労働者階級の友人から「卒業」したような優越感と孤独感の混ざった興奮を覚えていた。

金曜日、隆輝は真奈との箱根旅行の計画を立てるためキャンパス近くのカフェで歓談していた。
真奈はバイト代を貯めた可愛らしい豚の貯金箱をテーブルの上に置いた。
「じゃーん! これで私たち最高の温泉宿に行けるね。隆輝!」

真奈の瞳の眩しさが、今の隆輝には「非合理的」に感じられた。
彼女の純粋な期待に水を差すのは気が引けたが、隆輝の頭の中には既に「投資家」としての『最適解』が浮かんでいた。 「あー、真奈。箱根もいいんだけどさ。もっと『合理的な選択』があるんだ。」
隆輝はそう言いながら、ポケットから丁寧に折られた一枚の紙切れを取り出した。
「ほら、これ。GOOD LUCK HDの株主優待券! 熱海の温泉宿、平日2名1泊がタダ同然だぜ。な? 最高の利回りだろ?」
真奈は優待券を見て、ゾッとした顔で隆輝を見た。
「…え? タダ同然って…。私、隆輝と二人で頑張ってバイトして貯金して行くことに意味があると思ってたのに。安上がりな方法を探してたわけじゃないよ。」
「結果がすべてだろ。真奈、考えてみろよ。この優待券で浮いた5万円を株に回せば1ヶ月後には10万円になるかもしれない。俺たちは今、レバレッジをかけて一気に資産を増やすフェーズなんだ。お前との未来のためなんだぞ!」
真奈は怒りというよりも、隆輝が遠ざかっていくような戸惑いでいっぱいだった。彼女は「レバレッジ」だの「利回り」だの隆輝の口から飛び出す無機質な経済用語によって、二人には修復不可能な深い溝ができたように感じた。
「あのね隆輝。私はお金の話より、私たちが二人で過ごす時間が大切だと思っているの。いくら稼いでもその時間が『タダ同然』になるなら私は嫌かな・・。」
「時間だって資本だろ。真奈。わかってくれよ。」
その時ポケットのスマホが小刻みに、そして執拗に振動した。設定していたアラートだ!嫌な予感がする。隆輝は焦燥に駆られてテーブルの下で画面をチェックする。

(嘘だろ!?)
『メディカル・フロンティア』 治験失敗疑惑によりストップ安付近まで暴落!!
SNSの煽り屋を信じて追加で投入した全資金が一瞬で溶けていく。ローソク足はまるで奈落の底に落ちるように一直線に急降下。隆輝の顔から血の気が引いた。全身の毛穴が開くような、背筋が凍る感覚が思考を麻痺させる。
「そんなバカな……」
彼は真奈を振り返ることもせず逃げるようにトイレに駆け込んだ。冷たい大理石の壁にもたれかかり、震える指でアプリを操作する。一瞬の躊躇がさらなる損失を生む。
「クソッ…! なんとか約定!」
画面に表示された『実現損益:マイナス208,500円』を見て隆輝は愕然とした・・。たった数分で8万円の勝ち分どころかバイトで汗水垂らして貯めた貯金の大半を吹き飛ばしたのだ。これでは旅行にも行けない。
トイレから戻った隆輝の顔は別人だった。目の焦点が定まっていない。彼の瞳はもはや真奈を見ていなかった。
「隆輝? どうしたの、顔が真っ青だよ…何かあったの?」
「…あ、ごめんごめん。ちょっと…ゼミの教授からの連絡で、急ぎの資料がさ…。」
彼はまたいつもの嘘をついた。しかし、真奈とのデートを心から楽しんでいた以前の隆輝の面影はもはやどこにもなかった。ただ失った金を取り戻すという薄暗い執念だけが漂っていた・・。

深夜2時、アパートの薄暗い部屋。
隆輝は震える手でタバコに火をつけた。灰皿には彼の精神状態を表すかのように吸い殻が山をなしている。
「…20万…たった2日で20万円が消えたのかよ…。」
脳裏をよぎるのは真奈の不安そうな顔。そして、バイトで汗水垂らして貯めた貴重な10万円が一瞬で消し飛んだという耐え難い事実。恐怖がやがて激しい怒りに変わった。
(あの煽り屋どもめ! 信じた俺が馬鹿だった!)
だがその怒りの矛先はすぐに自分自身へと向かい、「絶対に取り返す!!」という破滅へのカウントダウンへと転換した。彼の理性は既に機能停止していた。
「そうだ。種銭が足りないんだよ、圧倒的に! 30万円なんかじゃ1回のミスで全て終わる。億り人になるためにはもっと大きな種銭を作る必要がある。」
パソコンの画面には様々な金融サイトが開かれている。彼の指がクリックしたのは学生ローンやキャッシングのリンクだった・・。

『学生ローン:即日融資可能』 『リボ払い:手数料、年利15%』
年利15%は冷静な人間なら絶対に手を出さない「死の金利」である。だが、今の隆輝の耳には甘い誘惑の言葉が響いていた。
「15%? 株で1日で30%上げれば全て帳消しだ。」
「100万円借りて3.3倍のレバレッジをかければ330万円分のトレードができる。10%上がれば33万円! 20万の損なんてすぐ取り返せるぞ!楽勝楽勝。」
翌日の市場が開くまでの数時間、隆輝は借金とキャッシングの申し込みを続けて信用取引枠マックスで資金を投入した。
30万円の貯金、100万円の借金。全てをリスクに晒したいわゆる『全ツッパ』の状態である。

全ての手続きを終えた後、隆輝は窓から差し込む朝焼けを見た。キャンパスライフとはかけ離れた、目の下の血走った瞳と乾いた唇。狂気的な高揚感が隆輝を取り巻いていた。
彼は、枕元に置いた真奈との写真立てを見ながら呟いた。
「待っててくれ、真奈。これは資本家になるための試練なんだ…。」
隆輝のストレスは既に100万円の借金の重みでMAXに達していた。彼の身体は「資本」「時給労働」どころか最も軽蔑していた「負債」によって既に動かされ始めていたのであった・・。
キャンパストレーダー隆輝編③ に続く
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