
時計の針が午後十一時を回った。
健一はリビングのソファに沈み込んだまま、立ち上がることができずにいた。膝の上で組んだ指が、自分のものではないように冷たい。
和室から低い声が途切れることなく流れてくる。光子が祭壇の前で何かを唱えているのだ。経ではなかった。聞いたこともない節回しが波のように寄せては引いていく。
健一は意を決して襖の前に立った。
「お袋。頼む。少しだけでいいから、時間をくれ」
「健一。もう何度も言ったでしょう。これは私が決めたことなの。あなたたちに止める権利はないわ」
襖越しの声には微塵の迷いもなかった。家族の説得すら乗り越えるべき「試練」として受け止めているように聞こえる。その穏やかさがかえって恐ろしかった。
隣で由美が唇を噛んでいる。健一の額に冷たい汗が滲んだ。
午前二時まであと三時間。それまでに三百万円が振り込まれれば、もう取り返しのつかないところまで行ってしまう。そんな予感が胸をじわじわと締めつけていた。
そのときだった。健一はふと耳を澄ました。
光子の声が二つに重なって聞こえる。
母の声のほんの少しあとを、別の誰かの声が追っているのだ。低い、男の声だった。輪唱のように、影のように、一拍遅れて同じ節を辿っていく。
襖の隙間に目を寄せる。祭壇の前に座っているのは、光子ひとりだけだった。スマホもラジオも、そこにはない。
「…由美。聞こえるか」
「聞こえてる。お義母さん、誰かと話してるみたい」
健一はそれ以上襖に近づけなかった。
玄関では朝斗がスマホを握りしめていた。
連絡先を遡る指が、ある名前の上でぴたりと止まる。「隆輝先輩」。
隆輝は、朝斗が大学のサークルで世話になった先輩だ。当時から「キャンパストレーダー」としてちょっとした有名人だった。その後、投資絡みで少々トラブルがあったらしいが詳しいことは知らない。卒業後は警察に就職し、面倒見のいい性格から朝斗とは親交が続いていた。
藁にもすがる思いで朝斗は発信ボタンを押した。
「隆輝先輩。夜分にすみません、朝斗です。実は、祖母が投資詐欺に巻き込まれていて、今夜、三百万円を振り込まされそうなんです。最近は宗教じみた団体まで絡んできて…。お願いします。力を貸してください」
一瞬の沈黙。それから電話の向こうで隆輝の声が引き締まった。
「詳しく聞かせてくれ。三百万、深夜二時、宗教団体。その団体の名前は分かるか」
「『黎明の環』です。木村という男が窓口で、みんなから先生と呼ばれています」
受話口の向こうで、紙をめくる乾いた音がした。隆輝はしばらく黙り込みやがて低く言った。
「朝斗。お前は運がいいのか悪いのか分からんが、俺は先月から特殊詐欺対策班に異動になったばかりだ。トクハンと呼ばれてる部署だよ。『黎明の環』…その名前はうちが最近マークしている団体と一致する。偶然とは思えない」
朝斗は息を呑んだ。
「すぐにチームを組む。ただし条件がある。これは正式な捜査に発展する案件だ。お前たち家族が独断で木村や団体に接触するのは、絶対にやめてくれ。下手に刺激すれば、証拠を消されるかもしれないし、お祖母さんの身の安全にも関わる。捜査情報は外部に一切漏らさないこと。SNSにも書くな。いいな」
「は、はい。約束します」
「もう一つ。お祖母さんには、今夜は何も気づかれないようにしてくれ。普段どおりに振る舞わせるんだ。こっちが動く時間を稼ぎたい。できるか」
朝斗はリビングを振り返った。襖の下から、和室の灯りが一筋、細く漏れている。その向こうにある祖母の背中が、ひどく遠く思えた。
「…やってみます」

電話を切ると、朝斗はすぐに健一へすべてを伝えた。健一は信じられないという顔をしながらも、かすかな希望にすがるように頷いた。
その瞬間、和室の声がぴたりと止んだ。
家じゅうが静まり返る。冷蔵庫の唸りさえ、消えたようだった。
数秒の後、襖の向こうで、光子がゆっくりと立ち上がる気配がした。
朝斗の背筋を何か冷たいものが駆け抜けた。
三十分後隆輝から折り返しがあった。今度はビデオ通話だった。画面の向こうの机には資料らしきファイルが何枚も広げられている。
「状況を説明する。まず『黎明の環』をマークしていた理由からだ」
隆輝は一枚の資料をカメラに向けた。
「うちの班は半年前から、高齢者を狙う投資詐欺のなかである特徴を持つ一群を追ってきた。投資話だけでは終わらない。二、三ヶ月かけて、『精神的な気づき』『執着からの解放』といったスピリチュアルな言葉を混ぜ始めるんだ。被害者が一度『出金を渋られた』と感じても、『波動』『試練』という言葉で納得させられてしまう。だから被害届すら出ない。この『二段階化』のパターンが去年から急増していて、発信源の一つが『黎明の環』という通称だった」
「二段階化…」
「普通の投資詐欺なら出金を拒否された時点で被害者が怒って警察に駆け込む。だがこの手口は、『出金を渋られている』という状態そのものを『自分の信仰が足りないせいだ』と被害者自身に思い込ませる。だから発覚しにくいんだ。立件できた過去の案件も挙げられたのは実行犯の末端だけだ。資金の流れを追うと、暗号資産を経由して海外のウォレットで足取りが途切れる。黒幕まで辿り着いたケースはこれまで一件もない。それが一番の『ヤバさ』だ」
健一は息を呑んだ。隆輝は続けた。
「それと今夜お前から送ってもらった番号だ。『もう手遅れかもしれません』の発信元だが、去年摘発した別グループの中継電話と同一だった。つまり『黎明の環』は単独犯じゃない。複数の詐欺グループが、番号や手口を使い回している広域ネットワークの一部なんだ。お祖母さんの個人情報は、おそらく木村の手元だけでなく、ネットワーク全体に共有されている可能性がある」
「じゃあ、今夜俺たちは具体的に何をすればいいんですか」
隆輝はホワイトボード代わりのメモ画面を映しながら指を折って説明した。
「一つ目。振込先の口座情報を俺に送ってくれ。こちらから金融庁と該当銀行に、緊急で疑わしい取引の通報を入れる。凍結まで持っていければ二時の送金そのものが物理的に失敗する。時間との勝負だが、今動けば間に合う可能性はある」
「分かりました。すぐ送ります」

「二つ目。お祖母さんには今夜は普段どおりに振る舞わせてほしい。木村側に『家族に勘づかれた』と思わせるのが一番まずい。証拠を消されたり、お祖母さんを別の場所へ移されたりする危険がある。だから今夜だけは『明日の朝一で振り込みに行く準備をしている』という体で話を合わせてやってくれ。辛いと思うが、頼む」
「三つ目。俺はこれから『黎明の環』周辺の実行犯の動きを張り込む準備に入る。幸い木村が過去に使った拠点の一つを特定できている。今夜のうちに機動チームを配置して、送金が実行された場合でもすぐ資金の流れを追えるようにしておく。あわせて他県警にも同種の被害情報がないか照会をかける。広域組織なら合同捜査本部が立つ可能性もある」
健一はメモを取りながら頷いていた。
暗闇のなかにわずかな道筋が見え始めていた。
画面の中の隆輝がふいに言葉を切った。
「…おい、朝斗。今そっちで、誰か喋ったか」
「え?いえ、誰も」
「俺の声に被せて女の声が入ってる。『ありがとうございます』って…」
朝斗は全身から血が引いていくのを感じた。隣の健一も由美も固く口を閉ざしている。
声は確かに和室の方から聞こえていた。光子の声ではない。若い女の声だった。
画面越しにも、隆輝の顔から血の気が失せていくのが分かった。
「…この通話は一旦切る。折り返す。それと」
隆輝は一度、唾を呑み込んだ。
「さっきの資料に、拠点の住所を書いたよな。あれは、まだ誰にも見せてないんだ。上にも、まだ報告していない」
映像がぷつりと途切れた。
数分後、全員のスマホが同時に震えた。
健一。由美。朝斗。三つの画面に見覚えのない番号が浮かび上がる。そこにはひとつだけ文面が添えられていた。
『ご家族そろって、よい夜を。』
送信元はあの「もう手遅れかもしれません」の番号だった。
隆輝との通話を切ったのはほんの数分前だ。この家の三人の番号をあの男に教えた覚えはない。
健一は和室の襖を見つめた。
光子のつぶやきはいつの間にか再開していた。今度ははっきりと聞き取れた。
家族の名前を一人ずつゆっくりと読み上げている。
「健一、由美、朝斗。そして…隆輝さん。」

朝斗『なぜ隆輝さんの名前を……⁉︎』
時計の音だけが残酷なほど規則正しく部屋に響いていた。
(④に続く)
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