
入社二日目、一之瀬蓮は所長の芦田薫に連れられて自己運用チームの投資委員会室に足を踏み入れた。壁一面のモニターには日経平均、ダウ先物、そして数十銘柄の株価ボードが並んでいる。
「今日から数回に分けて、決算シーズンで突出した内容の銘柄を一社ずつじっくり検討していくわ。」
芦田がそう切り出すと、黒田隼人と三浦美咲がそれぞれ資料を広げた。黒田は外資系運用会社でテック・半導体アナリストを七年、独立系ヘッジファンドでポートフォリオマネージャーを三年経験した中途組。三浦は証券リサーチと事業会社の経営企画を経て、財務・IR実務にも明るい。
「初回はイビデンから。」
三浦が資料を配る。
「8月4日に27年3月期第1四半期を発表。営業利益269億円、前年同期比52.4%増で、市場予想210億円を大幅に超過。これを受けて通期の営業利益予想を従来の900億円から1,270億円に上方修正。市場コンセンサスは1,050億円程度だったので、期待をかなり上回る内容です。」
「純利益は前年同期比40.8%増の179億円。通期純利益予想も引き上げて840億円、前期比31.8%増の計画。」
黒田が付け加える。
「電子事業、つまりICパッケージ基板が主役。去年量産を始めた大野事業場の稼働が安定してきたのと、円安が追い風になった。」
「セラミック事業の方は?」
芦田が資料を見ながら聞く。
「自動車の排ガス浄化フィルターが中心の事業。自動車販売台数の回復で売上は伸びてるけど、資材価格の高騰で利益は前年より減ってる。中長期では欧州のディーゼル車需要縮小という構造リスクも抱えてる。電子事業がそれを補って余りある、というのが今の構図です。」
三浦が答える。
「競合環境の変化も見逃せない。」
黒田が資料をめくる。
「FC-BGAで世界シェア約17%と言われる新光電気工業が、JIC(産業革新投資機構)による8,000億円規模のTOBで非上場化に向かっている。上場している直接の競合が一社減るということは、比較対象として株価が『相対的に安く見える/高く見える』というノイズが減るし、国策としてこの領域に資本が集まっていることの裏返しでもある。イビデンにとっては業界の重要性が再確認された形とも言える。」
「技術的な参入障壁も相当高い。」
三浦がホワイトボードに記載しながら続ける。

「NVIDIAのGB200などに搭載される最先端基板は70層以上の配線を持つ最高難度品で、安定量産できるサプライヤーは世界でも数社に限られています。作れる会社が世界に数えるほどしかないなら、値段を叩かれにくい。この技術的な優位性が、価格競争に巻き込まれにくい理由の一つです。」
黒田が腕を組んだ。
「この銘柄はもう5月の本決算発表時点で株式分割とセットの大幅上方修正でストップ高を演じてる。そこからさらに8月にサプライズを上乗せしてきた。二段連続でポジティブサプライズを出す会社は、市場から『まだ強気の数字を出し切っていないのでは』という期待も生みやすい。」
「その一方で、ここまで期待値が積み上がると次回決算のハードルも相当高くなる。」
三浦が冷静に指摘する。
「AIサーバー向け高機能基板の需要そのものは強いけど、株価はすでにその強さをかなり織り込んでいます。」
「レーティングと需給面はどうなの?」
芦田が二人に振る。
「アナリストコンセンサスは『やや強気』、目標株価コンセンサスは22,000円台。米系大手証券は26,700円まで出している一方目標株価を引き下げた証券会社もあって、評価は割れ気味です。ただし方向性としては強気が優勢。」
三浦が答える。
「テクニカルでは短期・中期・長期の移動平均線が揃って上向きで、暫くパーフェクトオーダーだったけど直近の半導体ショックで大分押した。しかし決算後はストップ高後あまり押し目が無い状況で、『押し目が浅くて入りづらい』状況ではある。」
黒田が付け加える。
「空売りを入れている機関投資家もいるけれど、一部は買い戻しに動いている様子も見える。信用買いも積極的に入ってきていて、需給面では強気派が優勢。ただ、信用買い残が積み上がるほど、下に振れたときの反動も大きくなる。この点は握力の弱い個人投資家の資金が多く入っている証拠でもあるから、頭に入れておきたい。」
三浦が締める。
芦田が二人のやり取りを聞きながら口を開いた。
「イビデンは『高値警戒、ただし主力テーマとしては外せない』銘柄。ポートフォリオには少額から組み入れて、決算またぎのポジション管理を徹底する形にしましょう。一気に大きく張るのは今のタイミングでは避ける。」
三浦が得意の転記術でまとめた決算サマリーは以下の通りである。

芦田が締めくくった。「以上でイビデンのディスカッションは終了するわ。次はレゾナックね。今期は5社のディスカッションになるから各自予習復習を欠かさないように。」
<用語解説>
ストップ高……株価が1日の値幅制限の上限まで上昇すること。
上方修正……企業が公表していた業績予想を、実績の上振れを受けてより高い水準に引き上げること。
コンセンサス……複数のアナリストが予想する業績数値の平均値。
決算シーズンはこのようにカブケン運用部で突出したサプライズ決算をディスカッションしていく場を設けることとします。今回は5社をピックアップします。
第95話に続く
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