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第87話 ストーリーモード17 カブケン!!Part1 「大型新人 配属初日」

とある日の朝、一之瀬蓮(いちのせ れん)は緊張した面持ちで都内のとあるオフィスビルの前に立っていた。エントランスに掲げられたプレートにはこう刻まれている。
株式会社投資研究所 通称「カブケン」

新卒で証券会社に三年勤めた後、思い切って転職を決めた蓮にとって、今日がカブケンでの初出勤日だった。
「本日付で入社しました一之瀬です。」
受付で名乗ると、すぐに一人の女性が迎えに来た。三十代半ばだろうか、ラフなジャケット姿でありながら、目つきには隙のない鋭さがある。出来る女性といったイメージだ。
「所長の芦田です。」
「よろしくお願いいたします。所長、ご自身で受付にいらっしゃるんですか。」
「うちは少数精鋭でね。肩書きに縛られてる暇はないんだわ。」


芦田薫(あしだ かおる)、それがカブケンを率いる所長の名前だった。案内された執務室には、大きなモニターがずらりと並び、日経平均、ダウ平均、為替、そして個別銘柄のチャートがリアルタイムで流れている。
「うちの会社は、大きく二つの柱で動いている。」芦田がホワイトボードに図を描きながら説明を始めた。

一つは自己運用チーム。日々のマーケットイベントやトレンドを分析して、実際に自分たちの資金を運用し、利益を積み上げていく部門。もう一つがコンサルティング部門よ。法人や個人投資家から相談を受けて、資産運用の設計や、投資判断のサポートをしていく。
「投資しながら、同時にコンサルもしていくということですか。」
「そう。自分たちが本気で相場と向き合ってるからこそ、机上の空論じゃないアドバイスができる、というのがうちの強みなの。今日は早速、コンサルティングの方を見てもらうわ。」


その時、応接室に一件の来客があった。中小の製造業「宮田製剤」を営む五十代の経営者、宮田氏だった。
「実は先月から、会社の運転資金の一部を投資に回せないかと考えていまして…。ただ、最近の相場は値動きが荒くて正直どう判断していいか分からないんです。」
芦田は相場の話をする前に、まず尋ねた。
「宮田さん、投資の話をする前にまず会社の体力を一緒に確認させてください。直近の試算表と貸借対照表をお見せいただけますか?」


宮田氏が持参した資料を広げると、芦田は電卓を叩きながら、慣れた手つきで数字を拾っていく。
まず見るのは手元流動性です。現預金を月商で割った数値で、一般的には1.5〜2ヶ月分あれば、当面の支払いには困らないと言われています。宮田さんの会社は、現預金が約8,000万円、月商が約2,500万円ですから……」
「単純計算で約3.2ヶ月分ですね。」蓮が即座に電卓を叩いて答える。
「そう。目安よりやや厚めに資金を持っている、健全な状態です。」芦田が頷く。「次に見るのは流動比率。流動資産を流動負債で割った数値で、100%を超えていれば短期的な支払い能力に問題はないとされますが、理想は150〜200%です。」
宮田氏の貸借対照表を確認し、芦田が数字を読み上げる。「流動資産が1億2,000万円、流動負債が6,000万円。流動比率は200%ですね。かなり良好です。」

「じゃあ、投資に回しても大丈夫ということですか?」宮田氏の声に少し期待がにじむ。
「まだ判断は早いです。」芦田が冷静に続ける。「最後に見るべきは運転資金の必要額。売上債権と棚卸資産の合計から、仕入債務を差し引いた金額が、事業を回すために常に確保しておくべき資金の目安になります。」
蓮が資料を見ながら計算する。「売上債権が3,000万円、棚卸資産が2,000万円、仕入債務が1,500万円……運転資金の必要額は、3,500万円です」
「その通り」芦田が蓮に頷く。「つまり、宮田さんの会社の現預金8,000万円のうち、最低でも3,500万円は投資に回してはいけない資金ということになります。さらに、不測の事態――例えば大口の取引先が支払いを一ヶ月遅らせてきた場合なども想定して、手元に月商1.5ヶ月分=約3,750万円は別枠で残しておくべきでしょう。」
宮田氏が電卓を見つめながら、複雑な表情を浮かべる。「そうすると投資に回せるのは、750万円程度ということですね。」

「はい。思っていたより少ないと感じたかもしれません。ですが、これが会社を守りながら資産形成をする堅実なラインです。まずはこの750万円の範囲で、リスクを抑えた運用から始めることをお勧めします。」
蓮はノートに、芦田の思考プロセスを書き写していた。「手元流動性→流動比率→運転資金の必要額→投資に回せる余剰資金」。相場観の前にまず会社の財務体力を数字で見極める。それが、コンサルタントとして最初に踏むべき順番なのだと、身をもって理解した瞬間だった。
宮田氏が身を乗り出す。「750万円を投資するとして、今の相場環境をどう見ればいいでしょうか。」
芦田が静かに問いかける。
「宮田さん、率直に伺いますが、最近の地合いについて、どう感じていらっしゃいますか?」
「地合いというと?」
芦田が微笑みながら、ホワイトボードにチャートを描き足す。

「地合いというのは、市場全体の値動きの『流れ』や『空気感』のことです。個別銘柄がどれだけ優れていても、市場全体が下向きの地合いなら、多くの銘柄が連れ安になりやすい。今の相場で言えば、日経平均が史上初めて7万円を超えた後の深い調整局面にあたります。急騰の反動で一時的に不安定になっていますが、これは上昇トレンドの中の一時的な踊り場である可能性が高いです。」
「なるほど。財務的に無理のない範囲で、かつタイミングも急がなくていいということですね。」
「その通りです。守るべき資金の線引きさえできていれば、多少相場が荒れても慌てる必要はありません。」
実際の運用については次回面談時までに作成し、宮田様にプレゼンする形となった。

面談を終えて宮田氏が帰った後、芦田が蓮に向き直った。
「どうだった??初日の感想は。」
「正直、圧倒されました。相場の話をする前に、まず財務諸表から入るとは思っていませんでした。」
「それがうちのやり方なのよ。相場観だけで語るコンサルは片手落ち。将来的にはあなたにも実際のポジションを一部任せるわ。もちろん最初は小さくだけど、本気で相場と向き合ってもらうよ。」
蓮は窓の外に広がる夕暮れの景色を見つめた。数字と人の想いが交差するこの場所で、自分がどこまでやれるのか――不安と期待が入り混じる、そんな初日だった。


<用語解説>
手元流動性……現預金(および換金性の高い有価証券等)を月商で割った指標。企業の短期的な支払い余力を測る目安とされ、一般的に1.5〜2ヶ月分が健全な水準とされる。
流動比率……流動資産÷流動負債で算出される指標。100%を超えれば短期的な支払い能力に問題はないとされ、150〜200%あれば良好な水準とされる。
運転資金……日々の事業活動を継続するために必要な資金。売上債権+棚卸資産-仕入債務で概算でき、この金額は本来、投資などのリスク資産に回すべきではないとされる。

第88話に続く

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