第121話 インベスターズノベルズ 幸福のドミノ②『〜加速するアクション 試される親子の絆〜』

 

*【この作品はフィクションです。実際の人物や団体などとは一切関係ありません。】

健一は震える指でリダイヤルボタンを押した。コール音が虚しく鳴り続ける。出ない。もう一度。また出ない。

「圏外か電源を切ったかだ…。」

 由美の顔が強張った。朝斗が後部座席から身を乗り出す。

「父さん、今すぐ行こう。おばあちゃんの家。」

 時刻は夜九時を回っていた。車は来た道を引き返す。信号が赤に変わるたびに健一の指がハンドルを叩いた。15分の道のりが一時間にも感じられた。

 光子の家に着くと灯りがついていた。だが玄関のチャイムを何度押しても応答がない。健一は合鍵で中に入った。

「お袋!いるのか!」

 返事はない。リビングに足を踏み入れた瞬間三人は言葉を失った。

 テレビ台の上。昼間には亡き正一の遺影が飾られていたはずの場所に見知らぬ写真立てが置かれていた。写っているのは柔和な笑みを浮かべた白髪の男、木村だ。その周囲には小さな蝋燭と水を張った器そして見たことのない文様の描かれた紙片が並べられていた。壁には「心の浄化」「執着からの解放」といった達筆な書が何枚も貼られている。

「これ…何?」

 由美の声がかすれた。朝斗はスマホのライトでテーブルの上の冊子を照らした。表紙にはこう書かれていた。

 『黎明の環 セミナー資料』

 ページをめくると見慣れない言葉が並んでいた。「選ばれし魂」「お金という鎖からの解放」「先生との魂の契約」。健一は背筋が凍った。これはもう単なる投資詐欺の話ではない。

 奥の和室から物音がした。健一が襖を開けた瞬間昼間には感じなかった空気の重さが肌にまとわりついた。線香とも違う甘く澱んだ匂い。部屋の温度まで低く感じられた。光子が正座していた。目の前には小さな祭壇のようなものが設えられやはり木村の写真が中心に据えられている。光子は振り返りもせずに言った。

「健一、静かにして。今は先生と繋がる大切な時間なの。」

「お袋……何だよこれ。木村の写真なんか飾って……。」

 光子はゆっくりと振り向いた。その目に健一は言葉を失った。いつもの穏やかな母の目ではなかった。何かに酔ったようなそして何かに怯えているような奇妙な光が宿っていた。

「あなたたちには分からないのよ。先生は私を選んでくださった。最初は投資の話だった。でも先生は最近こう仰るの。『本当の豊かさはお金の量じゃない。お金に執着する心こそが不幸を呼び込む。手放せば手放すほど何倍もの豊かさが巡り巡って返ってくる』って。だから明日の三百万円もただ無くなるわけじゃないの。きっと何倍にもなって私たちのところに還ってくるのよ。」

 健一は血の気が引くのを感じた。一見すると矛盾した話に聞こえる。「増やす」投資の話と「手放す」宗教の話は本来水と油のはずだ。だが詐欺の論理としては恐ろしいほど筋が通っていた。最初に「増える」という小さな成功体験を刷り込み信頼が育ったところで今度は「増やすこと自体への執着」を悪者に仕立てる。そうして手放させた金を「不幸の鎖を断ち切るための尊い行為」「倍になって返ってくる種銭」という物語で正当化し続ける。新興宗教の勧誘でしばしば使われる「種銭理論」とまったく同じ構造だった。

「お袋落ち着いて聞いてくれ。それは詐欺の手口なんだ。投資詐欺の次は宗教まがいの洗脳でさらに金を—。」

「違う!」

 光子が初めて声を荒げた。普段の母からは想像もできない鋭さだった。

「あなたたちは先生のことを何も知らないくせに!先生は私の孤独を分かってくれた唯一の人なのよ!お父さんが死んでからずっと一人だった私の気持ちあなたたちが分かってくれたことあった?先生だけが寄り添ってくれたのよ!」

 由美が涙ぐみながら光子の手を握ろうとした。だが光子はその手を振り払った。

「触らないで。あなたたちは『波動が低い』の。先生が仰っていた通りだわ。家族であっても執着を手放せない人は私の覚醒を妨げる存在になるって。」

 朝斗が震える声で言った。

「おばあちゃん、それ完全に典型的な洗脳の言葉だよ…。」

 

光子はそれには答えずスマホを取り出した。画面には木村とのトーク画面が開かれていた。そこには見たこともない量のメッセージが並んでいた。日付を見るとこの二週間だけで数百通。深夜二時三時にも及ぶやり取り。健一はその一部を読んで息を呑んだ。

『田中さんは特別な使命を持って生まれてきた魂です。しかし今のご家族はあなたの覚醒を理解できず低い波動であなたを引き戻そうとするでしょう。それは試練です。先生はあなたを信じています。』

『明日の深夜二時から特別な浄化の儀式があります。参加費は300万円。これはあなたの魂を縛る最後の鎖を断ち切るための大切な布施です。先着五名の特別枠。田中さんには必ず参加していただきたい。』

 健一の手からスマホが滑り落ちそうになった。300万円。残っている貯金はもうほとんどない。

「お袋まさかこれ明日払うつもりじゃ—。」

「払うわよ。当然でしょう。これは最後のチャンスなの。先生がそうおっしゃっているんだから。」

 その時光子のスマホが震えた。着信画面に「木村先生」の文字が浮かぶ。光子の表情がぱっと明るくなった。健一が止める間もなく光子は通話ボタンを押した。

「先生!ちょうど息子たちが来ていて…ええ分かっています。波動の低い干渉ですよね。」

 スピーカーから低く落ち着いた声が漏れ聞こえてきた。

「田中さん。ご家族の気持ちも分からなくはありません。しかし彼らはまだ気づいていないだけなのです。田中さんが選ばれた魂であることに。…ところで明日の儀式のことですがお金のご用意は進んでいらっしゃいますか。」

 健一はスマホを奪い取ろうとしたが光子は体でそれを遮った。

「先生息子が電話を代わってほしいと—。」

 健一は光子の手からスマホをもぎ取り耳に当てた。

「木村さん。いや本名かどうかも分からないが…あんた一体何者だ。投資詐欺だけじゃ飽き足らず宗教まで使って年寄りから金を巻き上げるのか。」

 一瞬の沈黙。それから電話の向こうで木村はくすっと笑った。背筋が凍るほど静かな笑い方だった。

「息子さんですか。お母様は本当に素晴らしい魂をお持ちの方です。あなた方には理解できないかもしれませんが私たちは田中さんを救おうとしているだけなのですよ。」

「救う?1,500万円も騙し取っておいてよくそんなことが言えるな。」

「田中さん。いえ息子さん。お金というのは魂にとって最も重い鎖なのです。それを手放すお手伝いをすることが私たちの使命です。…それと一つだけ申し上げておきますが。」

 木村の声が一段と低くなった。

「これまで『目覚め』を拒んだご家族が無理に引き離そうとしてどうなったか。私はいくつも見てきました。田中さんのためにも余計なことはなさらない方がよろしいかと思いますよ。」

 電話はそこで一方的に切れた。「ツーツー」という無機質な音だけが健一の耳に残った。

 

その言葉の意味を考えるほどに健一の背筋に冷たいものが走った。これまで引き離そうとした家族が「どうなったか」—それはただの脅しなのか。それとも本当に何かが起きているのか。

 健一はスマホで「黎明の環セミナー」と検索した。ヒットしたのは数件の掲示板の書き込みだけだった。そのうちの一つにこう書かれていた。

『母が「先生」と名乗る人物に心酔して家の貯金を全部持っていかれた。止めようとしたら母に絶縁された。半年後母と連絡が取れなくなった。今どこにいるか分からない。』

 投稿日は三ヶ月前。それ以降続報はなかった。

 健一は光子を振り返った。光子は祭壇の前で再び正座し小さく手を合わせていた。その横顔は健一がこれまで七十二年間見てきた母の顔とはもはや別人のように見えた。

「お袋…。」

 声をかけても光子は反応しなかった。ただ口の中で何か意味不明な言葉をつぶやいている。何度も何度も。まるで呪文のように。

 

由美が健一の腕をつかんだ。その手は氷のように冷たかった。

「ねえ健一。…お義母さん、もう私たちの知ってるお義母さんじゃないかもしれない。」

 窓の外で風が強くなった。雨戸ががたがたと音を立てる。光子の口から漏れる低いつぶやきだけが静まり返った部屋に響き続けていた。

 明日の深夜二時。儀式はもう目前に迫っている。

 健一のスマホに通知が届いた。見ると知らない番号からのショートメッセージだった。差出人の名前はない。本文はたった一行だけだった。

『田中さんのご家族の皆様。もう手遅れかもしれません。』

 健一は震える手でスマホを握りしめたまま動けなくなった。

(③へ続く)

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